旅づくし
菅沼佐和子 文と写真の修業用ブログ
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さわこ

Author:さわこ
SAWAKO
人呼んで「埼玉の女マルコ・ポーロ(笑)」。現在は東京在住です。編集プロダクションで旅行ガイドブックの編集を経験後、バックパッカーとして世界を巡る。これまでに訪れた国は100以上。現在はフリーランスライター&編集者として、再び旅行ガイドブック作成に関わる日々。
旅の素晴らしさ、世界の文化の多様さを、多くの人に伝えたいと願っています。

メール:sawakon29@hotmail.com
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これで私も一人前の旅人!?
去年の夏行ってきた、中国シルクロードの地図を作成中。南新疆のチャルクリクという小さな町の地図を作っていると、いろいろな事が浮かんできて息苦しくなってくる。

ホテルの外観を撮っていたら、軍人に怪しまれて警察へ連れて行かれたのだ。1日拘束された上パソコンを調べられ、いっぱい書き込んだ町の地図を没収され、翌日行く予定だったミーラン遺跡での写真撮影を、いやがらせのようにその日から禁止された。
ぜひとも写真が必要な重要な見どころだったのに、それなら行っても意味がないとあきらめた。

旅人があまり行かない南新疆、どんな所かと期待していたけど、チャルクリクは町は小さいけれど趣がなく、警察署と博物館だけ異様に立派で、夕方などはパトカーの数がやたらと多く、ちょっと変な町だった。

まあでも、無理やりよいほうに考えてみれば、旅人の武勇伝でよく聞くこういう話が、ついに私にも起きたのだ、ともいえる。
なんとなく、一人前の旅人になったような気もしなくもない(笑)。

私が悪人だという証拠は結局見つからなかったらしく、うんざりした私は夕方勝手に宿に帰ってしまった。昼間はトイレにまで人がついてきたのに、夕方だからか誰も追いかけてこなかった(パソコンは翌朝取りに行った)。

地図は没収されたけど、パトカーから隠れつつ再度町を歩き回って作成。大都市でなくて助かった。まあ、大都市ではこんなこと起きないだろうけど。
   
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幻のニヤ遺址
niyaisi.jpg

今年の8月、新疆ウイグル自治区の首府・ウルムチのある博物館で、私のテンションは上がりっぱなしだった。
なぜなら突然、古代シルクロードの壮大なロマン(笑)にとりつかれてしまったから。

その博物館には、新疆南部で発見された土器や布、ミイラなどが展示されていたけど、ミイラ(楼蘭美女)以外には有名なものはとくにない。
だけど心を奪われたのは、そこにニヤ遺址からの出土品があったからだ。

ニヤは3~4世紀ごろ、精絶国という小国があった場所と考えられている。
博物館の写真を見ると、かつて見たことがある楼蘭の写真とそっくりの木の梁が、砂漠に刺さるようにして並んでいる。

ここから出土したという小さな土器や木のまな板、毛織や絹織りの製品を眺めていると、この遺跡がまだ活気に満ちていたころ、ここで生きた人々の暮らしがわずかながら感じ取れるかのようだ。


「今回はニヤ遺址にも行ってください」
実は日本出発前に、こう頼まれていた。

だからどんな所かよく分からないながらも行き方を調べたり、旅行会社の人に聞いたりした。

するとそれが、なまはんかな覚悟(と懐具合)で行けるような場所でないと分かってきた。
せっかくなのでそれをメモしておこうと思う。いつか行ける日が来るかは分からないけれど・・・。


●ニヤ遺址に最も近い町は、民豊県のニヤ鎮。ただし、ニヤ遺址を見学するにはホータン文物局の人が1人同行しなければならないので、ニヤ鎮から車で5時間ほど離れたホータン出発となる。さらに現地では遺跡守りの村人も同行するので、1人で行く場合でも3人となる。

●ニヤ鎮からニヤ遺址を訪れるには最低2泊3日必要。道の途中から遺跡までの最後の60kmはラクダでしか行けない道で、テント、ラクダ4~5頭、食料、水の携帯が必須。
ちなみにラクダ1日1頭300元、テント1泊200元、食料1日200元、4WD1日2300元(ウルムチの旅行会社で手配した場合の料金)。

●文物保護費用、つまり入場料は1万5000元。なんと約19万円!!

●夏の間は気温が50度になり行くことができない。ニヤのベストシーズンは10~11月だそう。


かつてNHKシルクロードを見たときに、スタッフがわざわざラクダに乗っていく遺跡があったが、きっとあれはニヤだったのだ。
「番組を盛り上げるためかな?」と思ったけれどそうではなく、ラクダでしか行けないからだったのだ。

ただし、私が中国で買った新疆のガイドブックには、ラクダの代わりに「砂漠を横断する石油運搬車と交渉して乗せてもらうことも可能」と書いてある。

ともあれ、半分冒険のような砂漠の旅。その末に遺跡を目にしたら、どんなにか感慨深いことだろう。


行けなくなってしまったからこそ、なおさらロマンをかきたてるニヤ遺址。
砂漠のただ中に孤独にたたずみ、訪れる人はほとんどなく、きっと今も風に吹かれ、昼は太陽、夜は星の光に照らされているのだろう。
   
西安での留学生活も終わり
(2012年8月に書いたものです)

ある日、西安の繁華街を歩きつつ、ふとこんなことを考えた。

・・・外国語を話すということは、ドラえもんがポケットからものを取り出すのに似ているな。

「四次元ポケット=頭の中」からうまく「ひみつ道具=言葉」を取り出せれば、それはすぐに役に立つ。
しかしちゃんと取り出せなければ、どうしていいか分からず困ってしまうことになる。

いかにすばやく取り出してうまく並べるか、その訓練をするのが留学という環境なのだ。少なくとも私にとっては。

こんな風に思ったのは、これまで何年も日本で中国語を勉強して、かつ中国を旅行していても、いっこうに話せるようにならなかったから。いくらやってもダメなんじゃないか、という絶望に陥り始めていた。
でも、それは日本では必要な訓練ができないせいで、留学しさえすれば…という希望もちょっと残されていた。

その点、念願だった今回の留学は約3週間と短かったけど、頭の中から言葉を取り出す作業に少しは慣れることができたという意味で、成功だったといえる。

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西安交通大学の広大なキャンパスは緑でいっぱい

あと2週間~1ヵ月たてば、中国語を少しはあやつれることが楽しくてしょうがない状態になれそうだけど、残念ながらタイムリミット。明日西安を出て西に向かう。ここへ来てからのさまざまな出来事を思い出しながら、少し感傷的になっているかも。

大学の広大なキャンパスを毎日歩くのは、新しい体験で楽しかった。先生たちはまじめで生徒の評判も上々。なかにはひどい大学もあるらしいから、適当に決めたのにいい学校にこられてラッキーだった。
短時間だったのにほかの生徒たちとも仲良くなって何度も飲みに行った。西安は思ったとおり、3週間いても行きたいところがまだまだあって飽きることがない。

名残惜しいけれど、またのチャンスがあることを信じて、これから荷造りに取りかかろう。


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夏期講座の生徒数は少なくて、全部で10人。初級と中級の2クラスに分かれていた
   
中国 ノービザからの延長
2011年11月、北京でノービザ入国して、洛陽で延長したときのメモです。

●必要書類
・パスポート
・申請書1枚
・写真(日本から持参したものではだめで、現地で30元払って撮影してもらったものを使った)
・クレジットカード(提出はコピーのみ)
・預金残高証明書(もしかしたらなくてもできたかもしれないが、私はあせって先に見せてしまったので、ない場合どうなるかきちんと確認できなかった。私は日本の郵便局で500円払って取った残高証明書のコピーのみを提出)

●手続き
公安局で写真を撮影してもらい、1枚申請書に貼り付けてもらう。

パスポートの顔写真入りのページと入国印があるページ、クレジットカードの表裏、預金残高証明書のコピーを公安局で取ってもらう。

申請書類と上記コピーを「外国人ビザ」の窓口で提出(クレジットカードの本物と、預金残高証明書の原本は渡さなくてよい)。

申請には先にホテルにチェックインしていることが必要。ホテルが公安に滞在者の名前などの記録を送信し、それがパソコン上で確認されてから書類が受理される。

基本的に5営業日必要。でもどうしてもと言えば3日程度でもやってもらえるようだった(私が会ったイギリス人旅行者は水曜申請で金曜受け取りにしてもらっていた。なお、田舎だと割と短時間で延長できるというのはよく聞く話だ)。

滞在1日あたり100ドルの預金残高があることが必要とされているようだ。でもイギリス人はクレジットカードだけで残高証明なしで延長していた。

私は帰国日までのビザしかもらえなかったが、最大30日延長可能のはず。
   
ミャオ族歌手 阿幼朶
ayouduo.jpg

阿幼朶(アーヨウドゥオ)は、私がユーチューブで結構よく聞いている、中国の貴州省出身のミャオ族歌手。1977年生まれ。

この人のなめらかで甘い声が好き。ただし曲によって気に入らなかったりするので、それほどたくさんは聴いたことがないけれど。

阿幼朶が歌う曲は、のどかで(少してろ~んとしていて)明るいものが多い。ほかのミャオ族が歌う曲も似たような感じが多いので、もしかすると民族的な曲調なのかもしれない。

PVではミャオ族のさまざまな伝統衣装を着ているので、民族衣装好きな人は映像も楽しめると思う。

太陽鼓
http://www.youtube.com/watch?v=hqAE4tJbb24&NR=1
この人が歌っている中では有名な曲。ミャオ族は銅や木でできた鼓や、笙(しょう)などの楽器で有名な民族だけど、この曲や動画もそうした伝統楽器をモチーフに、ミャオ族らしさを出している。
画面の切り替わりが早いので、見ていてちょっと疲れる・・・。

多彩貴州
http://www.youtube.com/watch?v=juY0z_Czwek
貴州省各地の名所と伝統的な村、そして現代的な都会の場面が交互に映し出される映像も好き。
彼女は民族衣装がとっても似合うけれど、洋服になるとちょっと老けて見える(笑)。

阿幼朶がトーク番組に出ている映像
http://www.youtube.com/watch?v=dRTW1Dtm2Vs
しゃべり方や雰囲気がかわいくて、私もこんな風に生まれたかったなあと思ってしまった。

それにしても、中国ではユーチューブが見られなくなっているというのに(昔は見られたそうだけど)、どうしてこういうテレビ番組の動画をアップできるのか、いつも非常に不思議に思う。
   
80歳の旅人
人は一体、何歳ぐらいまで旅ができるんだろう・・。
私がこれまでに会ったことがある最高齢の個人旅行者は、確か70歳だった。
ところが今年11月に訪れた中国で、さらに上を行く人に出会った。

帰国前日、北京駅前のユースホステルに宿をとったとき、同室になったアメリカ人のトニー・ウッドマンさんがその人だ。

私が部屋に入ったときは誰もいなかった。4つベッドのドミトリーの中には衣類や食器が雑然と置かれ、相当年季の入った旅人がこの部屋にいることを感じさせた。やがて総白髪で長身の女性が部屋に戻ってきて、挨拶をしてから私に向かって話し始めた。

それは信じがたい話だった。彼女は現在80歳。子育てを終えた48歳のときに家を売り、以降32年間ずうっと旅行しているのだという。

一体なぜそれが可能なのか? トニーさんは女手ひとつで子どもを育て、さらに旅行資金をためていたという。日曜大工的な仕事は全て自分でこなし、スキーが好きだったが、ほかの人のようにスキーウェアを買い換えることはせず、古いものでずっと我慢した。恐らく仕事をしていたのだろう。そしてさらに、自ら工夫したキッチン用具を持ってあちこちのお宅のドアをノックし、売ってお金を稼いだのだそうだ。

彼女はつい最近まで3ヵ月間モンゴルにいたが、あまり肌に合わず中国にやって来た。北京にゆっくり滞在するのは17年ぶりのことだという。「私は中国が好き。でも北京はずいぶん変わったわ」などと言う。確かに17年も経っていれば、まさに浦島太郎状態だろう。

さらにノルウェーのスキー場で吹雪に遭って困った話、中国であちこち小さな町を巡ったことなど・・・。彼女の旅の話はいつまでも尽きそうになかった。

また、こんなことも言った。
「私は17年前に、北京で中国語のレッスンを受けたの。その先生ととても仲良くなったけれど、彼女は私と同年代だから、今生きているか分からない。けれど私は3日かかってその大学まで行くバスを見つけたから、明日は昔の先生に会いに行ってみるつもり。先生の名前はもう忘れちゃったけど、家の場所だけは覚えてるから」

こんなに旅ができて、トニーさんはとても丈夫な人なのかと思うかもしれないが、そういうわけでもないようだ。耳は遠く、足が悪くてひざを曲げることができず、常に立っているか寝ているかだった。歩みも非常にゆっくりで、トイレまで行くのが大変そうだ。そして血圧計を持ち歩き、何か食べて血糖値が上がったことを確認してからでないと、朝もベッドを出られない。病気の英語名がよく分からなかったが、いくつも持病を抱えているようだ。夜用に尿瓶を自分で用意し、何度もそれを使っていた。一緒にいたのは一晩だけだが、ドミトリーの部屋がまるで病室のように思えてくるほどだった。この人は本当にちゃんとバスに乗ったりできるのだろうかと、とても心配になってしまった。

旅は帰る場所があるからこそ気楽なのであって、それを持たない流浪とか放浪というものは、いくら憧れても実際には悲壮感がぬぐえないものだ。この旅の大ベテランともいうべきおばあさんに会ったことは、最初は頼もしく嬉しかったが、私は徐々に暗い気持ちに支配されていった。

いつ動けなくなるか分からない状態で、しかも帰るところもなく、この人は心中どんなに心配で心細いことだろう!?

・・・しかしそれは杞憂だったようだ。「いつ死ぬか分からない」と口癖のように言いながらも、部屋をよぼよぼと歩きながらも、彼女はとてもエネルギッシュだった。翌朝話したところによると、彼女は北京のあとに上海、さらに昆明へ行き、モンゴルで会った人たち(多分西洋人)に再会するのだという。そして来年あたりに、アメリカに戻って大学の講義を受けたいと考えているという。老人は受講料が無料になるのだそうだ。

「やりたいことはまだまだいっぱいあるわ」
こんな彼女の言葉に、帰る場所のない悲壮な放浪のイメージは崩れ去った。前向きな気持ちや好奇心を持ち続ければ、どんな人でも悲壮な放浪にはならないのかもしれない。彼女のような人こそ、真に旅を愛する人と言えるのだろう。

「北京で17年前の中国語の先生を探す」。この面白い過去旅行に、ぜひともついて行って手伝いをしたかった。でもトニーさんはまだしばらくベッドを出られそうにないし、私もその日の午後帰国しなければならなかったので、彼女を急がせて負担をかける恐れがあった。だから、結局ついて行きたいと言い出すことができなかった。

最後に彼女とメール交換をし、握手をした。私がガイドブックの仕事で来ているというと、トニーさんは「女性がそういう仕事を持っているのは嬉しい」ととても喜んでくれた。

「もう生きて会うこともないかもしれないけれど、元気で」
それが彼女の別れの言葉だった。
     
四姑娘山のあるお寺で【中国】
あと少しでデンマークに向けて出発・・。その前に、6月から7月にかけて行った中国の四川省での思い出について、ちょっと書いておきたくなった。

四川省は面積が日本の1.3倍もある大きな省。沿岸部が発展している中国のなかでは、内陸にありながらも例外的にかなり豊かな省だ。パンダや麻婆豆腐、三国史などで日本人にもなじみが深い。

東部には四川盆地という巨大な盆地が広がっているが、少し西に行くとすぐ山と谷になり、やがてチベット高原に至る。実際、四川省はチベットのエリアであるアムドとカム地方を編入して成り立っている。

私が訪れたのは、アムド地方にあたるアバ・チベット族チャン族自治州の南部にある四姑娘山(しこじょうさん)という場所。
風光明媚なことで有名な自然保護区で、中国人憧れの地だということだ。

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ここにチベット寺院があったので、一緒に行動していた日本人女性と別れ、私は一人で入っていった。

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漢民族とチベット族の居住区の境界にあるこの辺りでは、チベット文化の色彩は強くない。チベット語を話せなくなっているチベット人や、文字が読めなくなっているチベット人にも会った。
この寺院の内部も、チベット的な装飾は皆無。金色の仏像だけが、わずかにチベット仏教のにおいを放っている。

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寺院内には誰もおらず、とても静かだった。私は疲れもあって、座布団の上に座り込んでぼんやりしていた。

すると、あちこちに白いわたのようなものが散らばっているのに気づいた。
座布団から出たわたなのか、と思ったら、それは外からやってくるらしい。
ある植物のわた毛が、夕暮れ時のこの寺院に、音もなくふわふわと舞い込んできているのだった。

やがて背後に気配を感じた。オレンジ色の僧服をまとった若いお坊さんがやってきて、床を掃き始めたのだ。
「掃いても、掃いてもこんな風に積もってしまうんです」お坊さんはそう言って、舞い上がるわた毛を静かに掃いていた。

「ここにあるのは、左から千手観音像、釈迦如来像、そしてパドマサンバヴァ像です」とお坊さんが言う。「観音像の前でオンマニペメフムと唱えてください」。
「オンマニペメフム・・・。日本にも千手観音や釈迦如来像はありますが、パドマサンバヴァはないですね」と私が言う。

私が日本人だとわかると、お坊さんはこう言った。

「日本では地震がありましたね。地震はとても恐ろしいです。東北大地震が起きたとき、私は本当に本当に日本に助けに行きたかった。しかし機会がなくて無理でした・・・」

深い声でしんみりと話すお坊さんの話は、中国語が片言の私にもなぜかよく分かり、私を感動させた。

四川省、しかもアバ・チベット族チャン族自治州は、2008年にまさに大地震があったところだ。死者の数は東北どころではない。ただし四姑娘山のあたりはそれほどひどくはなく、家は多くが倒壊したが死者はなかったという。
地震の恐ろしさが分かるからこそ、こんな風に言ってくれたのだろうか・・。

これら以外は何を話したのか、もうよく覚えていない。話の途中で、お坊さんは何度も「あなたは中国語が上手ですね」と言ってくれた。実際、こんなに長いこと中国語で会話をしたのは初めてだった。



・・・ふわふわとわた毛が舞い降りてくる、薄暗い寺院の中。お坊さんの深くやさしい声と、日本人への思いやり。

それらがひとつになった場面が、今でもまるで一幅の絵のように思い出される、心に残る体験だった。

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麗江のネコ【中国・雲南省】
こんにちは。最近は仕事に追われる日々です・・。

会社に行かずに自宅作業なので、人とも会わなくなりました。
オンとオフの区別がなくなり、完全に昼夜逆転。土日もほぼ仕事していて、平日も休日も関係ない日々。

そして自分で自分を管理するしかないので、仕事の能率がかなり落ちました。
眠くなるとすぐ寝ちゃうし、お腹が空くとすぐ食べちゃうしね。それはそれでいいんだけど・・。

現在、中国南西部の世界遺産の原稿を執筆中。
昔行った雲南省の麗江の写真を探していたら、かわいいネコちゃんの写真があったので、余った写真と共に載せることにしました。
2007年8月に撮ったので、もう4年たつんだなー。

         *         *         *

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中国の南西部、雲南省の麗江は、世界遺産に登録されている古い町。
ナシ族という少数民族が、唐代に築いた。
木造瓦屋根の家並みが素敵な場所だ。

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町並みのいい写真が撮れなかったのが残念。
そういえばこの当時は一眼レフを持ち始めたばかりで、まだCANONのEOS KISSを使っていた。
以降2回カメラを買い替え、現在は5D-Mark2。
私にはちょっともったいないカメラかもしれない。それでも腕が悪いので、あまりいい写真が撮れない(涙)。

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ナシ族のおばちゃんたち。広場で踊りを踊っていることもある。

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麗江でよく見かけるトンパ文字。世界に現存する唯一の象形文字だという。
ナシ族の司祭によってのみ受け継がれているそうだ。

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とある家にいた白いネコちゃん。まだちょっと子どもらしさが残っている。
   
昆明お気に入りの食べ物ベスト3
2007年の夏に滞在していた、中国南西部の雲南省。
省都の昆明では、さまざまな食べ物との出会いもあった。

町歩きをしていると、時々見かけたこの料理。お気に入りの第3位だ。
いったいなんだか分かります?

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臭い食べ物として好みが分かれる、臭豆腐(チョウドウフ)。
台湾のガイドブックなどではよく紹介されている屋台料理だけれど、雲南省にもあるのだ。
中国のあちこちにあるようだが、特に南部でよく食べられているという。

臭い食べ物好きの私は大喜び。
昆明では、一口大のかわいい豆腐を網にのせてじりじり焼いている。
注文すると唐辛子の粉と、写真にあるようなオレンジ色のソースがついてくる。
臭みはあまり強くないので、ちょっと物足りないほどだった。


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そして、第2位。これは雲南省名物の過橋米線(グオチャオミーシェン)。
具とスープ、米でできた麺がこのように別々の皿に分かれて出てくるので、自分でスープの中に投入する。

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この料理は、科挙の勉強に励む夫が好きな時に食べられるようにと、妻が考えた料理だという話が伝わっている。表面に油の膜があるため、スープが冷えないのだという。
妻がこの料理を橋を渡って(過ぎて)運んだことが、名前の由来となっているそうだ。

具が多いものだと20元(当時300円ぐらい)して、ちょっと贅沢な料理だったけれど、豪華な感じで楽しい。そしてやっぱりおいしい。


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さて、私の昆明お気に入りの第1位は、「護国橋頭小吃街」というフードコートで食べた料理。

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そう、これはザリガニ。
ここまで目立っていては、食べないわけにいかない。

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「香辣蝦(シアンラーシャー)」と頼むと、ピリカラ味の炒め物にしてくれる。
足などが硬くて口の中で引っかかる感じはあるけれど、これが香ばしくてとってもおいしい。なんとよくビールに合うことか!

ザリガニは中国のあちこちで食べられていると思うけれど、この店は試しやすくてよかった。


さて、私のお気に入りベスト3は上で述べたとおりだが、ほかにももちろんあれこれ食べた。

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大都会の昆明、こんなオシャレな料理が食べられるきれいなカフェ風レストランもある。
メニューの正確な名前は忘れてしまったけれど、海南鶏飯とエッグタルト。

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こちらは語学学校の先生が連れて行ってくれた店で食べたごちそう。
中心にあるのは、水あめを塗ってあぶったアヒル、つまり北京ダックと同じものだ。
ただし、雲南省ではこれをビンという皮に包むことはせず、ぶつ切りにしてそのまま食べる。
それにしてもこの料理の皿の数!大勢で行くからこそ、中華料理は楽しいな。


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雲南省にいて嬉しいのは、ワインやコーヒーがあること。
右のグラスの赤ワインは「雲南紅」と呼ばれ、昆明の南東150kmほどの場所にある弥勒県で生産されているようだ。
20世紀の初頭にフランス人の宣教師が種を持ち込み、本国フランスでは自然災害により絶滅してしまった品種だという。
そんな貴重なものだったとは・・・今調べてみて初めて知った(笑)。

雲南省のコーヒー生産量は、2010年の時点で4.2万トンだという。コーヒーで有名な大国に比べたらまだまだ少ないが、政策によって生産量は増えているという。
コーヒー生産の中心地は雲南省のどこかよく分からない。「スターバックスが2009年、保山市に初の自社農園とコーヒー研究基地を建設する」というニュースが見つかったから、昆明から500kmほど西の保山あたりだろうか。

とはいっても、この写真に写っているのはコーヒーではない。
実はこれ、コーヒー味のコーラなのだ。

「こんなヘンなものがある!」
面白半分で買って飲んでみたけれど、そのあまりのまずさにふた口ぐらい飲んで捨ててしまった。
使われているコーヒーが雲南産だったかどうかは不明。

今あれこれ調べていたら、「コーヒーコーラ」なるものがフランスやアメリカで発売されたことがあるということが分かった。
一般の人がコーヒーをほとんど飲まない中国に、コーヒーコーラがいち早く導入されたのだとしたらびっくりだ。
あれから3年半が過ぎた現在、中国にまだこの飲み物が存在していたら、きっとさらにびっくりするだろうな。
      
昆明で見かけた斬新な帽子
2007年の夏に、ちょっとだけ留学していた雲南省の昆明。
もしかしたらここは、私が中国で一番長く滞在した町かもしれない。
それでも計3週間ほどだけれど・・・。

留学の後仕事(取材)もしたけれど、昆明は町が大きいだけでなく郊外にもたくさん見どころがあって、結構大変だった。

きれいで特に趣のない大都会に、当時は別に何の思い入れもなかったけれど、今写真を見返してみたら懐かしく感じられる。

今日はそんな昆明で見かけた、ある「皮」で作られた帽子の写真を紹介。


私は東風東路と白塔路の交差点にあるホテルに滞在していた。通っていた私立の語学学校もすぐ近くにあった。
その東風東路から町の中心部に向かってずーっと歩くとたどり着くのが、北京路との交差点にあるこの東風広場だ。

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ある時ここで見かけたのが、皮は皮といっても柑橘類の皮でできた帽子をかぶった人。

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な・・なんと斬新な。

昆明は緯度は低いが標高が約1900mもあり、年間を通して気候が穏やかなため「春城」と呼ばれている。
ひどく暑くもなく、寒くもならない快適な場所だ。

このような場所で、しかも日よけになるわけでもないこんな帽子を、なぜかぶっているのだろう?

まあ、帽子以外の格好から推し量るに、この公園で寝泊りしている人なのだろうな・・。

昆明にはしばらくいたから、いろいろ食べ物も楽しんだ。
次回は私の昆明お気に入りの料理を掲載する予定です。




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